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阪神淡路大震災16年目

2011.01.18.10:07

こんにちわ~
今週はめづらしく、火曜日がお休みですよ~

昨日朝寝坊しちゃいました
目覚ましかけて、携帯も目覚まし機能にしていたのに…

原因は分かってるんですよ。
一昨日も記事にしましたが、ビリーズブートキャンプをしたから

職場のお友達にね、
  「私ね、ビリーズブートキャンプ頑張ることにしたんよ」
て言ったら、
  「あ~~あれねぇ、お友達がやって熱出してたわ…」
だって  

普段運動不足な人が急に動くと、こんなもんです



昨日は阪神淡路大震災から16年目でした。
去年詳しく記事にしたので、もしよければご覧くださいね。
それぞれクリックすると、別ウィンドウが開いて、記事へジャンプします。
   
    阪神淡路大震災の記事 その1
    阪神淡路大震災の記事 その2
    阪神淡路大震災の記事 その3

長い文章なので、疲れたらごめんなさい。
去年読んでくれたお友達にはね、
  「だいぶたっているのに、よく細かく覚えてるね」
と言われましたが、忘れられるはずはないんです。

たぶん一生忘れないでしょう…どころか、書いてないエピソードはまだまだあるんです。

でも私も年をとっていくのでね、今後どうなるか分からない。(今は若いけど?えっっ?)
じゃあちゃんと覚えてるうちに、記事にしておこうと。



地震後メディアで有名になった言葉の一つにPTSDがありますよね。
私の場合、とくにそれらしい症状は出ませんでした。

とにかく住むところはない、食べ物も着るものも何にもないところから始まり、祖母はしばらく寝たり起きたりで、「明日の生活どうしよ~」と、それが不安でたまらなく、気が紛れていたからかなぁ。

親戚には恵まれていたので、物質的にだいぶ助けてもらいました。

PTSDらしい症状と言えば、
  ・地震後一人で寝られるようになるのに1ヶ月ほどかかった。
  ・寝ころぶと、ソファなど家具の隙間に血まみれの母が横たわっている幻覚が見えた。
  ・頻繁に起こる余震にキャーキャー言ってパニックになる。(今でも)
  ・生活が落ち着いた半年後くらいに、めまい、吐き気、孤独感を感じた。

めっちゃPTSDにかかってるやん…



今は…というと、自分が母の亡くなった時の年齢に確実に近付いていってるのが怖いのです。
母が亡くなったのは49歳で、まだまだそこまでは遠いんだけど、自分も早くに子供を残して死んじゃうんじゃないか…なんて思ったりして。

って私は健康だし、なんの根拠もないんですけどね。



あと、何年か前の「JR福知山線脱線事故」(←この事故もうちから車で30分くらいのところです)に遭われて助かった方たちがおっしゃっていたのですが、
  
  「なぜ自分が助かったのか。自分が生きていることが、死んだ方に申し訳ない」

これも特に根拠はないんだけど、私も時々そう思う時はありましたねぇ。



最後にちょっと書きにくい内容を一番下コメント欄左の追記(more…)に伏せています。



あ~~今年もやっぱり長くなってしまいましたね。
阪神淡路大震災について書くのは、今年でおしまいにします。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました



昨日ちっちゃいことだけど、嬉しいことがあったよ
最近ちっちゃいことにも感動できるようになった私。
しばらく楽しそうです




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このカテゴリをクリックしてくださった方へ

2010.01.20.00:01

「阪神淡路大震災」のカテゴリをクリックしてくださった方、ありがとうございます。
心より感謝いたします。

この記事は私が経験した震災の前後数カ月の出来事を記録しています。
上から「その3」「その2」「その1」と、記事の新しい順になりますので、初めて読まれる方は、スクロールして「その1」から読んでくださいね。
どうぞよろしくお願いします。

阪神淡路大震災 3 ~その後~

2010.01.19.21:08

お久しぶりです。
数日間忙しかったので、更新することができませんでした
なぜ更新できなかったかは、この次の投稿で書きますね。

で、地震のお話の続きです。主にライフラインについて書きます。
地震のお話も一日で手短に書くつもりだったのですが、結局「三夜連続放送!」みたいになっちゃいました。
日本に住んでいる限り、どこで地震が起こってもおかしくはありません。
今日書くことが参考になればいいなあと思っています。



 
一番早く復旧したのは地震から一週間後の電気だった。
それまでろうそくで生活していたので、電気が点くのがうれしくて、あちこち点けたり消したりしてみた。
地震の被害の程度によって復旧するのはまちまちだったようだ。
後で知ったが、うちの近所は一番遅い地域だった。

水道は相変わらず出なかったので、水はペットボトルの水を飲み、トイレに流す水は叔父に山の沸き水を汲んできてもらったのを、浴槽に溜めて使った。
食事はスーパーが開店するまでの半月ほど、学校で配給されるものや親戚が持ってきてくれるものを食べた。
よその地域からのお弁当の売れ残りや、時には賞味期限の切れた食べ物や牛乳も平気だった。
学校の配給に並んでいるとき、自分の家族の人数分をもらうのだが、うそをついてたくさん貰おうとした人と配っている人が、つかみ合いのケンカをしていた。
食器は洗う水がないので、紙皿を使った。毎回捨てるのはもったいないので、紙皿にラップを敷いて食べ物を乗せて、ボロボロになるまで使った。

母の火葬の日の夜、地震後初めて親戚の家で入浴したが、髪を洗っても洗っても黒い水が出た。
5回くらい洗ったがきれいな水にならないので、あきらめた。
お風呂は一足早く水とガスの出た親戚の家に、妹と交代で一週間おきに入らせてもらいに行った。

地震の一週間後、足の裏にガラスがいくつか刺さって、その上に新しい皮がかぶってきているのに気がついた。
病院は祖母の痛み止めを貰いに行くとき、相変わらず混乱しているのが分かっていたので、自分で取ることにした。
はさみやピンセットや針を、カセットコンロの火に近づけて消毒し、皮を切ってピンセットで取った。
痛くて涙が出た。

2月に入ってようやく阪神電車が大阪から最寄の駅の隣の駅まで通じたので、一度職場に行ってみようと思った。
電話があまり通じてなくて急に行ったので、同僚はみんなびっくりしていた。
職場はまったくダメージがなかったので、仕事はその後すぐ再開した。
初日の終業後、私の周りにたくさん集まってくださり、「辛かったでしょう、よく頑張ったね」と私を抱きしめて一緒に泣いてくださった。
私がたくさんの物を失くしたので、どなたかが呼びかけてくださって、家にある使ってない調理器具やタオルや洗剤、食べ物、水などを下さった。贈答品などで貰うような可愛いものやブランド品で、かえって申し訳ないくらいだった。
あまりにもたくさんで、私のロッカーに入らなくなった。
毎日3つづつくらい持って帰ろうと思った。
一度5リットルの飲み水のパックを持って帰ったとき、あまりの重さに、駅を降りて駅前のお好み焼きの屋台で、お好み焼きと物々交換してもらった。駅から40分くらい歩いて帰るのに、自信がなかった。お好み焼き屋のお兄さんは、水のパックをとても喜んでくれた。

あまり入浴してなかったので菌が入ったのか、ストレスのせいなのか、膀胱炎にもなった。
仕事のときも、行き帰りの道中もしゃがみこむほどとても辛かった。

うれしかったのは、いろんな方が尋ねてきてくださったこと。
妹が瓦礫の後片付けをしに行ったとき、「お姉ちゃんの知り合いの何とかって言う人が来てたよ」ということもあった。
避難していたマンションに、中学高校の同級生、大学の同級生、幼稚園のときのお友達のお母さん方、同僚が、3、4人ずつ尋ねて来てくださって、母にお線香を上げてくださった。
来れなかったお友達もわざわざ電話や手紙をくれた。

ほとんど毎日全壊した家の後片付けをしに行ったが、近所の方も、私たちや祖母のことを心配してくださって、「早く帰ってきてね」と言ってくださった。

親戚はかわるがわる来てくれて、いろんな物を持ってきてくれたり、一緒に瓦礫を片付けてくれたり、私たちが早くもとの生活に戻れるようにサポートしてくれた。
一番うれしかったのは、交代で泊まってくれたこと。
相変わらず大きな余震があり、マンションの最上階は凄くゆれを感じた。
私たちだけの生活になると、また怖いことが起きるのではないかと、とても怖かった。
親戚が帰るとき、
  「お願いやから帰らないで!次はいつ来てくれるの!?」
と追いすがって訴えた。
部屋に一人で寝られるようになるまで、2ヶ月ほどかかったと思う。

当時髪が長い上に、めったに入浴できなかったので、思い切って切ることにした。
比較的被害の少なかった職場の近くの小さな美容院に入った。
洗髪ができるということで、ガスが出ているのかと思っていたが、部屋の周りに炊飯器、ポット、深型のホットプレートなどがずらりと並べられていて、お湯が沸かされていた。
なるほど、いいアイデアだと思った。
水道はたぶん2月中に出たと思う。洗面所にストーブを付けて、美容院で見たように、お湯を沸かせるあらゆるものを使って髪を洗った。

ガスはやはり被害のひどかったので、一番遅く4月に出るようになった。出ないのが当たり前だったので、普通に料理ができるのが不思議だった。

とりあえず普通に生活できるようになったので、4月に母の葬儀もちゃんと行った。
普通の主婦なのに、160人もの方が参列してくださった。
本当なら喪主は祖母がするのだろうが、亡くなったのが子供だった「逆さまごと」になるので、喪主は私になった。

このころになると、ずっと臥せっていた祖母も元気になり、私たちが仕事に行っている間、家の家事ができるようになった。

3月に全壊した家を解体し、8月から元の場所に家を新築、11月終わりに引越しした。

古い家に慣れていた私たちにとって、新しい家はとてもうれしいものだった。
祖母も楽しそうだった。

ところがその年の暮れ…たぶん12月20日過ぎていたと思う、祖母が急におなかが痛いと言い出した。
いつも通っている内科に車で連れて行ったが、その日は様子を見ましょうと言われ、帰ってきた。
かなり辛そうだったので、私も夜1階で寝ることにした。
一晩中七転八倒し、一度黒いものを吐いた。
朝、今度は大きな総合病院に連れて行ったら、即入院と言われる。
胆石だった。
しゃべれない祖母に代わって、私が先生と話をした。
  「おばあちゃん、最近何かストレスになるようなこと、ありましたか?」
  「地震で長女を亡くしました。」
  「あ、それが原因ですね。そういう人、多いんですよ」

祖母はお正月を挟んで入院した。
妹はそのお正月もスキーに行ってしまった。
新しい家に一人残された私は、親戚の家に電話をかけまくって集合をかけた。

1996年2月に祖母は胆石の手術をして、無事退院した。






私の地震のお話は終わりです。
これはすべてではありません。
あの1年のことをすべて書くと、本1冊出来上がってしまうと思います。

私の周りでは母以外に私が知っている限りで、実家が経営する会社の社員の息子さん、中学高校の時の同級生、中学高校の同級生のお父さん、大学の同級生の彼氏が亡くなりました。

地震はとても辛いものだったけど、いろいろなことも教えてくれました。
人の温かさや助け合い、それまで興味がなかった「近所とのお付き合い」がどれだけ大切なのか、当たり前のように思っているライフラインがどれだけ大切なのか…ところが!ところが、贅沢に暮らしている今では、それらのこと、すべて忘れがちになっているのです。

もう15年もたっているので忘れそうになっていましたが、今回ブログに書くことで、忘れていたことを思い出し、自分を見つめなおせたらいいなあと思っています。

長い長い文章になりましたが、最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。
次回から普通のブログに戻りますので、よろしくお願いします!!

阪神淡路大震災 2

2010.01.16.23:59

前回の続きになります。
引き続き、長い文章が苦手な方、暗い話が苦手な方、読んでいて気分が悪くなられた方は、読むのをおやめになるよう、よろしくお願いいたします。

  1月17日(月)たぶん夕方ごろ
母の遺体を乗せたミニバンは、灘高(全国的に有名な難関校)の体育館の前に到着した。
体育館はたくさんの人が出入りしており、入り口にいた役所の人数人が、母の遺体を運ぶのを手伝ってくれた。
体育館の中は選挙のときに敷くビニールシートが敷いてあり、到着した遺体から奥につめて何列にも並べてあった。
私が到着したときにはすでに3分の2くらい埋まっていた。
どの遺体にも、寝ていた時着ていたであろうカラフルな布団がかぶせてあり、この場の雰囲気に合わなかった。

到着してからずっと一人で遺体の傍らにペタンと座ったまま動けなかった。
自分の今の状況を受け入れることが出来ず、ひたすら
  「昨日の今の時間に戻って欲しい」
と願った。

白衣を着た医師らしい人が、遺体を順番に検死していた。
  「どこでどうやって亡くなりましたか?」
  「自宅でつぶれた家の下敷きになりました…」
  「即死ですか?」
  「なかなか出せなかったので分かりませんが、たぶんそうだと思います。解剖するんでしょうか?」
  「こんな状況なので無理ですね…」
医師は私の言ったことを自分のノートに書き込み、またそれとは別のノートに何か書き込んで、ちぎって母の布団の上に乗せた。
医師が立ち去ってから見ると、亡くなった日にちと時間(地震の時間)、家の住所、母の名前と年齢が記載されていた。 

保健婦も順番に回ってきた。手を合わせた後、「ご遺体を見せていただきますね」と布団をめくった。
顔を脱脂綿で拭いて、鼻に綿を詰めてくれた。
  「お顔、とてもきれいな方ですよ。せめてもの救いですね」
と言った。

その後、叔父(叔母の夫)と、祖母を病院に連れて行ってくれたご夫婦が、様子を見に来てくれた。
祖母はその病院に入院しており、怪我は打撲ですんだらしいとのことだった。

真冬だったのであっという間に暗くなった。
町全体が電気、水道、ガス、電話のライフラインはすべて供給停止していた。
体育館の壇上では役所の人が、水のペットボトルと毛布を配給していた。おにぎりのパックを配っていたが、不思議とおなかがすいてなかったのでもらわなかった。

朝からの疲れが出始めたので寝ることにした。冷たい体育館の床に横になって毛布を頭からかぶった。遺体と遺体の間は1メートルくらいしかなかった。
ときどき母の布団をめくって、本当に亡くなっているのか何度も見てみた。次めくったら、生きてるかもしれない…

電気も暖房もない広い体育館は寒かった。後で聞いたが、その日はその冬一番の寒さで零下だったらしい。
窓のガラスも割れて風が吹き込んでいた。絶え間なく襲ってくる余震に怯え、一番きつい余震のとき、上のほうの窓が割れて、その近くにいた人は大きな悲鳴をあげていた。

眠りに着く前に、朝電話がつながったほうの京都の叔母夫婦がようやく到着した。叔母は母の遺体を見て
  「こんな紙切れ一枚になってしまうなんて…」
と絶句して泣いた。

灘高の運動場は避難してきた人の車でいっぱいだった。あまりにも寒い夜だったので、私、叔父叔母で、交代で運動場のよその人がしていた焚き火に当たって一晩を過ごした。その間も
  「昨日の今頃はまだ地震は来てなかった…まだ私は幸せな自分だったんだ…」
と思い続けていた。

私の体はしょうがないので生きているようだった。でも魂は地震と一緒に死んでしまったと思った。少なくとも、毎日楽しいことばかり考えて、親に甘えてのほほんと生きていた自分はもう死んでしまったんだと思う。


  1月18日(火)
朝早くに、妹が体育館に姿を現した。妹もスキー旅行に行っていたが、向こうで地震のニュースを見てこちらに連絡をとろうとしたようだ。
被害のなかった京都の叔母の家に電話がつながって、従兄弟からこちらの状態を聞いたそうだ。
スキーの荷物は友人に預け、一人で帰ってきたのだが、大阪駅から神戸方面は電車が不通になっていた。
電車で40分くらいかかる距離を一人で歩いてきたらしい。
当時は線路の上を人がぞろぞろ歩くのは当たり前の光景だった。

近い親戚も一人二人とやってきた。話し合ったのは、母の遺体をどうするか、住むところはどうするかだった。
住むところは祖母の弟が、灘校から川を挟んで反対側に使ってないマンションの一室を持っていたので、そこに寝泊りできることになった。
祖母の弟は被害の少なかった神戸市西区に住んでいたので、棺桶の手配と火葬の手配をしてくれた。火葬は5日後の日曜になった。

その日は借りたマンションに行って住めるようにしたり、全壊した家に使えそうなものがあるか見に行ったり、祖母の入院している病院に車で連れて行ってもらったり忙しかった。
祖母は本当に気丈にしていた。
病院は戦争中の病院のように、ごったがえしていた。
廊下まで人があふれ、怪我をした人が床にじかに横になっていた。

食べ物は祖母の弟が家の近くのデパートで買ってきてくれたお惣菜を食べた。
地震が起こって初めて口にした食べ物は、餃子だった。
従兄弟と「餃子おいしいね」と言いながら食べたのを覚えている。
大変なことがあったのに食欲があるのが不思議だった。

妹が全壊した家の中から母のアクセサリーを取ってきた。
冷たい体に指輪やネックレスをかけてあげた。

マンションから4軒ほど向こうの国道沿いに区役所があった。
区役所だけではなく、国道も人があふれかえっていた。
区役所にはいつも大型トラックが止まっており、大量のタオル、衣類、赤ちゃんのオムツ、全国から集まった食料、飲料水などを搬入していた。
建物の中は黒電話がずらりとならんでおり、無料で使えるようになっていた。
国道は自衛隊の装甲車が見えなくなるくらい遠くまで連なっていた。

地震の直後に瓦礫から脱出したときにできた傷と、裸足でうろうろしていたときにできた傷から血が出ていたので、絆創膏が欲しかった。
国道沿いにコンビニがあった。
ドアは割られてそこから入った人々が食料品や生活用品を勝手に持ち出していた。
私もその人たちの後に続いて割れたところから中に入った。
店主がいたのでみんなあわてて外に逃げていったが、私だけ取り残されてしまった。
  「すみません、怪我しているので絆創膏持って行っていいですか?お金ないんですけど…」
  「いいよ。もう何でもいいから持って行って…」
完全にあきらめているようだった。

体育館にはもう一泊した。


  1月19日(水)
体育館に並んでいたたくさんの遺体のうち、引き取る術のあった人数名が運ばれていっていた。
私は疲れが出たのか、ずっとパジャマにジャンパー、素足に運動靴という格好でうろうろしていたせいなのか、9度5分の熱を出してしまった。
妹や親戚は、朝から家の瓦礫の様子を見に行っていた。
私も行きたかったが、「お母さん見つけるのにあれだけのことをして疲れてるんやから、ゆっくり寝ておきなさい。」
と、言われてマンションのリビングに寝ていた。
祖母がいつ退院したのかが記憶にないのだが、この日一緒に留守番した記憶があるので、地震が起きて2、3日で「たいした怪我をしていない、もっとひどい人もいる」と、病院を出されたと思う。
祖母も自分の長女を亡くしたことにショックでずっと臥せっていた。

相変わらず水道、電気、ガス、電話は供給を停止していた。
飲み水はペットボトル、食べ物は親戚が持ってきてくれる食べ物か灘高で配給されるものを並んでもらった。
電気は昼間はいいが、夜は家のあちこちにロウを垂らしてじかにろうそくを立てた。頻繁に来る余震のたびに、ろうそくがひっくり返ってないか見に行った。
身近な親戚がずっと泊まってくれたので、さみしくはなかった。
夜はリビングに布団を敷いて10人くらいで一緒に寝た。

寝ていなさいと言われても、じっと寝ていられなかった。
避難したマンションは、川の真横にあった。
上流を見ると、川岸では洗濯をする人でいっぱいだった。
トイレに用を足した後、水をひしゃくで汲んで、フタを開け放しにしたタンクに水を入れて流していたので、その水をバスタブに溜めようと、ポリタンク2個を持って川に水を汲みに行った。
水を汲んで川から道路に上がり、マンションを回って5階の自分の部屋まで階段を上がることを5回くらい繰り返した。
熱が高く辛かったが、動かずにいられなかった。

その日、祖母の弟の手配のおかげで、母の棺桶が届いた。見た親戚に聞いたら、非常時なのにとても立派な彫り物がある棺桶だったそうだ。
納棺をするのにみんな灘校に出かけていった。
私も行きたいと言ったが、みんなに寝ておくように言われたので行かなかった。
本当は最後に母に会いたかった。
遺体は5日後の火葬まで、葬儀屋で預かってもらうことになった。
日にちがたっているので着替えさせることはできなかったが、上に気に入っていた明るい山吹色のチェックのスーツをかけたらしい。

うちはまだ手配が早くマシなほうだった。
灘高の運動場には組み立てる前の棺桶のキットの入った薄いダンボールが山のように積み上げられていた。
遺族の人は、このキットを金づちを持って自分たちで組み立てていた。
それを見て、運んでいるとき、釘が外れたらどうしよう…と考えた。


  1月23日(日)
母の火葬の日、地震後初めてひどい土砂降りになった。
家の瓦礫で取り出せたものもあったが、心配なところには大きなブルーシートをかけておいた。
結局区内の斎場がいっぱいだったので、神戸市北区の鵯越斎場まで行くことになった。
何台かの車に分かれて大勢で行った。うちの車は車自体はほとんど無傷だったが、周りの瓦礫を片付けないと車を出すことができなかった。
全員乗れないので友人が車を出してくれることになった。

鵯越の斎場もたくさんの人でごった返していた。異様なのは、本来ならみんな喪服を着ているはずなのが、みんな普通の服を着ていることだった。喪服を着ている人なんて誰もいなかった。

最後に母の顔を見せてもらえることになった。
理由は忘れたが、場所が土砂降りの斎場の駐車場の真ん中だったことを覚えている。
あまりにもたくさんの人の予約があるので、普通の葬儀のように、その場でゆっくりお別れすることができないようだった。
ひとりずつ傘を差して、お別れしに行った。
最後に祖母がお別れしたが、ずっとおとなしくて冷静だった祖母がお棺にしがみついて泣いていた姿は、一生忘れないだろう。

いよいよ荼毘に付す部屋に入ったときも、すでにお棺がセットされていた。
あわただしくお経を上げ、お棺はスーッと移動していった。誰も無言だったが、私はこの何日かのことを考えると、涙が止まらなかった。
足の力が抜けて座り込んでしまい、叔母に抱えられてその部屋を出た。





またまた長くなってしまいました
でもこれで割愛しているほうなんですよ。
後、ライフラインのことなど書きますので、あと1日だけお付き合いください。
続きは明日書きますね…








阪神淡路大震災 1

2010.01.15.17:10

これは私が実際に経験した本当の話です
すべてを書こうと綴っているうち、ほんとに長くなってしまいました
長い文章が苦手な方、暗い話が苦手な方、また読んでいて気分が悪くなられた方は、どうぞお読みにならないよう、よろしくお願いいたします。

阪神大震災からもう15年がたちましたが、いまだにあの日の記憶は鮮明です。
最近では親族以外とこの話をすることはほとんどありません。
この話をしようとすると、たいていの人が「思い出したらかわいそう」と思われるのか、さえぎられてしまいます。
去年秋にランチ仲間とランチをしていてたまたまこの話になりました。
二人とも最後まで聞いてくれて、「大変な思いをしたんだね」と言ってくれました。



~阪神淡路大震災の記憶~  

  1995年1月13日(金)
私と友人の計6人で、信州にスキー旅行に出発する。
それぞれ仕事を終えて19時に大阪で待ち合わせ。夜通し高速を走り明け方信州に到着。
ペンションで2泊し、とても楽しいスキー旅行だった。


  1995年1月16日(月)
午前中ゲレンデで滑り、お昼に信州を出発。途中高速の分岐点で友達の車とはぐれ、家に着く予定の時間をオーバーしてしまう。
家に帰ると疲れて荷物をばらす元気もなく、入浴。
祖母はもう就寝していた。
母は大相撲ダイジェストをテレビで見ていた。
私が次の日の仕事の準備をしてから寝るつもりだと話すと 
  「明日しんどいから早く寝えよ。」
と言った。

私が育った神戸市東灘区にある家は、明治30年くらいに建てられた家で、母、私、年子の妹、祖母(母の母)の4人家族だった。
妹も私と同じ日からスキー旅行に出かけており、私より一日遅く…17日の夜に帰ってくる予定だった。



  1995年1月17日(火)
週末ずっと家を空けていたため仕事の準備に手間取り、ようやく寝たのは明け方4時ごろだった。

ぐっすり眠っていたのに、眠りを妨げたのは、今まで聞いたことがない音だった。
たくさんの人の運命を分けた5時46分…

地鳴りのような、グオオオオーーーという…説明できないくらい恐ろしい大きな音、家中がビリビリと震えて、背中に接していた布団を伝って背中までビリビリ響いた。

そしてその後縦に大きく揺れだした。
ちょうど太鼓の上にマメをばら撒いてバチでたたいたらマメが跳ねるように、体は布団から離れて大きくバウンドした。

そのとき思ったのは、「あれ、六甲山って活火山だっけ?じゃあ溶岩流れてくる?」
脳裏には毎日見慣れている美しい六甲山脈の山並みが浮かんだ。

それが終わると今度は横に大きく揺れだした。
後にテレビで見たが、全壊した建物は横に5メートルの幅で揺れたらしい。

あまりの恐怖に声も出せず、ブンブン振られるのに、つかまるところもなかった。

そのうち体の上に物がバラバラと落ちてくるのを感じたので、頭まで布団をかぶって、布団の両端をつかんで必死で体の安定を保とうとした。

最後に、寝ていた2階の床がガガガガーーと下がっていくのを感じた。
その間も体の上には何か分からないが落ちてきたり倒れたりしてきて押しつぶされそうだった。
  「これは絶対死ぬ…私の人生短かったなぁ…」
真剣にそう思った。
想像を絶する恐怖に私の精神状態は耐えられなくなったためか、かなりのものが落ちてきたので頭を打ったのか、(たぶん両方)気が遠くなっていった。

どれくらい気を失っていたのか分からない…たぶん一瞬に違いない。
しばらくすると、あたりはシーンとなっていた。

布団をちょっとめくって見てみると、頭の上にはぽっかりと穴が開いており、星がまたたいていた。
  「部屋に寝ていたはずなのに、なんで星が見えるんやろう?」

遠くのほうでは
  「助けてー助けてー助けてー!」
と、誰かが叫んでいた。

突然表現できないくらい恐怖を感じた。
  「誰か助けてー!お母さーん、助けに来てー。早く来てよー。怖いよー」
ありったけの声を出して叫び続けた。

でも誰も助けには来てくれなかった。
真っ暗だったので上にどんなものがあるのか分からなかった。
布団をめくって周りを探ってみた。
どうやら狭い空間になっているらしく、瓦礫の一番底にいるようだった。

  「自分で出てみよう…」

手探り足探りで、伸び上がって出てみた。
倒れた柱や大きな梁や瓦礫の間をぬって、どんどん上がっていった。
着ていたパジャマはいろんな突起物に引っかかってずり落ち、得体の知れない瓦礫はおなかの周りを傷つけた。
動くたびに瓦礫はガラガラと崩れていった。

そして、一番上に出たとき、自分が屋根の上にいることに気が付いた。
たぶん声にならない、ワーッとか、キャーッと悲鳴を上げたと思う。

暗くてよく見えなかったが、家は上から押しつぶしたような感じで、大きな屋根がその上に乗っている状態だった。
  「何とかしな…何とかしな…どうしよう、どうしよう」
独り言を言いながら、屋根を駆け下りて、下に下りれそうなところを選って道路に下りた。

そして、家の前を何往復もしてみた。
2階建ての家はやはり上から押しつぶしたように跡形なく、前の道路に向かって倒れており、歩道をふさいでいた。
歩道の白いガードレールと昔からある電柱で、どうにか道路までくずれるのを防いでいた。

普段出入りに使っていた勝手口の辺りに来たとき、
  「助けて、助けて…」
と、弱弱しい声が聞こえた。
祖母だった。
  「おばあちゃん、今行くからね。」
瓦礫を乗り越えて、声のするほうに登って行った。
祖母は居間だった部屋のあたりに倒れていて、瓦礫や砂に完全に埋まっており、頭頂部…セロテープの芯くらいの大きさしか見えなかった。
  「助けるからちょっと待ってて」
と言ってとりあえず顔の上に積もった砂を手で払いのけた。
あちこち触ってみたが、祖母の上に乗ってるものはびくともしなかった。
台所のガスコンロの元栓からホースが抜けて、ガスがシューシュー言いながら漏れているのに気づいたので、瓦礫の上を這って行って元栓を締めた。
凄く臭かった。

そのとき、
  「おばあちゃん、大丈夫かー!?」
と言う男性の声が聞こえた。
道路の方向を見ると、瓦礫の間から3人の男性の顔が見えた。
1人は隣の家のお兄さんだった。
  「埋まっててまったく動かないんです、助けてください!」
残りの2人は私は知らないけど近所の人と、通りかかった人だった。

3人は祖母の救出にかかってくれた。
祖母はもう起きていたらしく普通の服を着ており、朝の用意をしていたらしい。
後で聞いた話だが、揺れだしたとたん、走ってストーブとガスコンロの火を消して回って食器棚の前で生き埋めになったそうだ。
祖母の機転が利かなければ、私も祖母も生きたまま焼け死んでいたと思う。

祖母の救出は困難だった。
食器棚が体の上に倒れ掛かっていたのが、食器棚の5つの引き出しが胸に食い込んで、重い食器棚をかろうじて支えていた。
ちょっとでも動かすと、引き出しの角はますます胸に食い込んだ。
その間もきつい揺り返し(余震)が来て、さらに瓦礫はくずれていく。
足場が悪いところで大変だったがかなりの時間をかけて祖母は救出できた。

  「おばちゃん(母)は?」
祖母に気を取られていたので、母のことは頭になかった。

片方の近所の男性という人が「女の子やのにかわいそうやから」と、ジャンパーと運動靴をくれた。
私はそこで初めて、自分がパジャマで素足であることに気づいた。
その後、向かいのおばさんがズボンもくれた。
あまりの寒さにパジャマの上にズボンをはいた。

あたりはようやく明るくなっていた。
まったく何も持っていないので時間すら分からなかった。
祖母は道路を渡った向かいの細い道に、近所の人が引いてくれた毛布の上に横になっていた。
あまりに寒いので、途中でお向かいの家の方が、和室とお布団を提供してくれた。
祖母は気丈にも泣くこともなく、目をつむって静かにじっと横になったまま動かなかった。
どこを打っているか、症状も分からず、このままスーッと亡くなるんじゃないかと思った。
むしろ、私のほうがパニックになっていた。

道路は車が渋滞を作っており、海の方向からたくさんの人がぞろぞろと北に向かって歩いていた。
  「お姉ちゃん、早く逃げんと津波が来るで」
  「母がまだ埋まっているから…」
母の安否が分からないのにどこへも行けなかった。

同じならびにお店が4軒あり、前に公衆電話があった。すでにたくさんの人が並んでいた。
お金を持っていなかったので、非常ボタンを押して二人の叔母に連絡してみた。
近いほうのおばの家にはつながらなかった。
京都の叔母のところはつながった。
  「はい…もしもし…?」
従兄弟の眠そうな声。
  「あのね、家がめちゃめちゃにつぶれてお母さん生き埋めになってるねん。すぐに助けに来て!」
従兄弟が電話の向こうで凍りつくのが分かった。
  「え…お父さんに代わるわ!」
叔父も息を呑むのが分かった。
  「今すぐ家出るから待ってて!」

私は「お母さん、お母さーん」と叫びながら、屋根の上を歩くことしか出来なかった。

家が経営する会社が歩いて5分のところにある。
そこへ行けば誰か出勤しているかもしれない…
走って行ってみた。
誰か出勤しているどころか、社屋も植え込みに向かって斜めに倒れそうだった。
当時敷地内に、小学校の同級生兄弟が住んでいた。
そのおうちはちゃんと建っていたが、なかはめちゃくちゃのようだった。私の話を聞いておじさんとおばさんが、
  「早く行ってあげなさい」
と言ってくれた。二人を連れて帰ったが、案の定全壊した家を見て絶句して立ち尽くす二人。
それでもあちこち見てくれたが、どうすることもできず、彼らの家も大変そうだったので帰ってもらった。

これは、もう人の力ではどうしようもない…それでもあきらめず、あちこちから母を呼び、公衆電話に並んで親戚への連絡を試み、祖母の様子を見に行き、祖母の怪我を診てもらうよう、向かいの医院に頼みに行くことを繰り返した。

祖母は
  「もうお母さん死んでると思うからあきらめなさい。最初助けてて叫んでたけど、だんだん声が聞こえんようになってしまった。もし遺体が出てきても格好悪いから、泣き叫んだらあかんよ」
耳を疑った。
こんな状況なのに、祖母は近所の手前を気にしている…大正生まれなので、そういうこと気にするよう身についているのだろうか。

朝から飲まず食わずだったので、向かいの奥さんから水をもらった。
洗面所を借りて初めて鏡を見た。
顔はススで真っ黒に汚れ、長い髪は埃で真っ白になり、逆立っていた。

お隣のお姉さんが、
「小学校に行ったら、避難してる人がいっぱいいると思うから、男手があるかもしれない」
と教えてくれた。
今まで思いも付かなかった。

早速小学校に走って行った。
卒業してから一回も門をくぐることはなかった学校。
運動場には、避難してきた人がだいぶ集まっていた。
建物の前に先生だか市役所の人だか、男の人たちがマイクとスピーカーを出していた。
  「すみません、ちょっとそれ、貸して下さい」
その人たちは急に言われてびっくりしたようだった。
マイクを借りると、
  「私の母が家の下敷きになっています。生きているか分かりません。母を助けてください。力のある方どなたか一緒に来てください。よろしくお願いします。」
何度もぺこぺこお辞儀をした。
6、7人の男性が、集まってくれた。
  「〇〇さんですよね?」
その中の一人が、なんとちょっと前仕事で関わりのあったKさんだった。
この人たちを連れて家に戻った。けれど人の力では、やっぱりどうしようもなかった。

公衆電話もかなり列を作っていた。
そこで向かいの道をまっすぐ行って曲がったところに、公衆電話があるのを思い出した。
行ってみた…
けれど、公衆電話があったであろう場所は、2区画ほど火の海だった。
人は避難しているのか、誰もいなかった。
離れたところに地元の消防団の服を来たおじさんが、燃え狂う炎をじっとみつめていた。

  「すみません、母が家の下敷きになってるんです。どうか助けてください。レスキューは来ないんですか?」
  「こんだけ燃えてるのにどうしようもないねん、もうあかん、消防車もレスキューも来おへんで」

あの辺に公衆電話あったはず…燃えている家々の前を走って駆け抜けた。
そのとたん、目の前の家がドーンと爆発。
爆風でひっくり返り、上からは燃え盛った破片がバラバラと落ちてきた。
さっきのおじさんがやってきて、
  「あんた、無茶したらあかん、せっかく助かったんやろ!!」

何時か分からないが、連絡取れなかった方の叔母の夫と従兄弟が来てくれた。
  「お母さんが、持って行きって…」
水筒と食べ物だった。おなかはまったくすいてなかった。
お茶でうがいをしてみたが、何度うがいをしても、黒い水が出た。

うちの会社の社員と言うご夫婦がやってきた。
その方たちは初めて見る人だった。
家が経営している会社なのに、どんな人が働いてるかまったく知らなかった。
骨折か打撲か症状の分からない祖母を放っておくわけにも行かず、このご主人が車で山の途中にある総合病院まで連れて行ってくれた。
奥さんは私を抱きかかえ、
  「大丈夫よ…お母さんきっと見つかるからね」
と、ずっと優しく言い続けてくださった。

道を渡った歩道には、「どうやらここにはまだ人が埋まっているらしい」というのが分かったのか、野次馬が集まりだした。
すると、南の方から大きなショベルカーが渋滞をかき分けてゆっくり進んでくるのが見えた。
先頭に立って誘導しているのは、先ほど小学校に助けを求めに行った時名乗り出てくださった、仕事で関わりのあったKさんだった。

  「あちこち探して、やっと来てくれるショベルカー、見つかったんですよ…」
Kさんはご家族を小学校に置いたまま、瓦礫をのけてくれるショベルカーを探し続けてくれていたのだ!

叔父と、Kさんと、最初に学校に行ったとき一緒にうちに来てくれた方たち…気になって戻ってきてくださった市役所の方たちで、ショベルカーに指示をして、家を掘り返す作業が始まった。
向かいの歩道はぎゅうぎゅうになるほど野次馬でいっぱいだった。

私の部屋のあったあたりの物をショベルは容赦なくすくっては捨て、すくっては捨てた。
見慣れた自分の本やぬいぐるみや服や勉強机の破片が目の前を飛んでいった。
私は従兄弟と道に突っ立ったまま胸の前で手を合わせていた。
息が詰まりそうだった。

どれくらい作業を繰り返したのか…急にショベルカーが止まった。

叔父の顔が見えた。

顔が真っ青で引きつっていた。
そして…顔を横に振った…

やっぱりだめだったんだ。
助からなかった。
地震がおさまった直後、「助けてー」と何度も叫んでいたのは母だったんだ。

急に力が抜けて、倒れそうになった。
近所のおばさん二人が両脇をかかえてくれた。

母の遺体はひっくり返った門から外した戸板の上に寝ていた布団ごと乗せられ、布団を上からかぶされて運ばれてきた。

弁護士事務所に勤めており、仕事に行くときは髪をしっかりセットし、お化粧もばっちりで、スーツをピシッと着ておしゃれが完璧だった母…

なのに、知らない人たちにパジャマ姿を見られてかわいそうな母…

向かいの医院の院長がやってきて、布団をめくった。
触るのが怖いのか、懐中電灯をかざしてチラッと見ただけで
  「ご愁傷様です」
とだけ言った。

冷たい戸板に乗せられて、たくさんの野次馬に見られる母がかわいそうだった。
野次馬…なんとか蹴散らさなきゃ…

激しい怒りが湧き起こった。

  「お願いやからこちらを見るのは止めてください!!みんなどこかに行ってください!人が亡くなってるんです!見んといてください!!」

怒鳴り続けた。誰も立ち去らず、引きつった顔でこっちを見ていた。

その中で、ひとり、インスタントカメラで必死にこちらの写真を撮り続ける男性に気がついた。
  
  「そこの写真撮ってる人、止めてください!新聞社に売るつもりでしょ?人の不幸を撮らないで!撮ったフイルム抜いてください!」

私の剣幕にびっくりしたその人は、フイルムを出すことはなかったが、お手上げの格好をした。

叔父が灘高(全国的に有名な難関校、灘中、高等学校)が遺体安置所になっているということをどこかで聞いてきた。
会社のミニバンを持ってきて、大勢の人たちが注目する中、戸板ごと後ろから乗せた。私もその隅っこに乗った。

灘高までの5分間、

  「お母さん、お母さん、どうしよう…これからどうしたらいい…?」

と、ずっと泣き続けた。体はガタガタ震えて止まらなかった…





やっぱり長い文章になってしまいました
ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。
こころから感謝いたします。
続きは明日投稿します。
もし気分を悪くされている方がありましたら、ごめんなさい。

地震のあった1年ほど前の暮れに作った、生き残りのくまちゃんです。高さ30cmくらい。

012_convert_20100115171435.jpg

毛並みがあるので結構難しかったです。
地震後いいことも悪いこともいろいろ見てきたくまちゃんです。
何日か前の記事で「手芸なんか大嫌いだった」と書きましたが…作ってましたね…
ずずのブログへ ようこそ!
プロフィール

ずず

Author:ずず
兵庫県在住
6月19日生まれ
最近何でもが面倒くさいO型

【主な登場人物】
主人公 ずず
脇役1 高3のぴーちゃん
脇役2 小6のじぞうくん
その他、通りすがりの人

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